避けたくなる心を応援する

三陸の海

東日本大震災のようなショッキングな出来事を体験すると,その体験を思い出してしまうような出来事を避けるようになることがあります。

3/11以降,多くのCMが自粛される中,毎日のように流されていたCMがありました。被災したある方は,数か月後仮設住宅での生活が始まりやっとTVを観る時間がとれるようになったそうですが,そのCMが流れると「思わずチャンネル替えるっぺ」と話していました。

これは,「回避」と呼ばれるストレス反応の一つです。

前回お伝えした被災地の学校でのこころのケアの取組,「辛かった体験の表現活動」の目的の一つは「回避」のストレス反応に対するケアでもあります。

職場の不適応や不登校,ひきこもりの背景にも「回避」の反応が考えられますが,「回避」が心理的な問題と言われるのはどういうことなのでしょうか?

危険な出来事に遭遇した時,それを避けなければ自分らしさが奪われてしまいます。

ですから,前述した辛かった当時の記憶を連想させるCMを避けるためにチャンネルを変えた行動は,健康な心によるものです。ただ,もしCMの後に自分の大好きなアイドルが出演していたら見逃してしまいます。回避したことで本人にとって有益なことが得られなくなってしまった,というわけです。

「回避」という心の働きが,問題であるとか,病的として扱われるのは,その心によって本来の自分らしさの実現可能性が奪われてしまう場合です。

例えば,海で大切な人を亡くし,海どころかプールにも入れなくなってしまうことがある。本来,プールは危険ではないのに,危険であるかのような間違った判断をしてしまっているのですが,こうした回避反応がいつまでも続いてしまうと問題です。泳げるようになるという自分の可能性が高まりませんし,また「いつまでもプールや海を避けている自分は弱い人間だ」などと勘違いしてしまうかもしれません。

「回避」にも,良い回避と悪い回避があると言っても良いかもしれませんね。

では,どうして辛かった体験を表現することが「ケア」になるのでしょうか?

CMの話しに戻しましょう。

自分が避けたかったのはCM自体ではなく,その当時に避けられなかった強い不安や恐怖,辛さなどを伴った体験です。

避けることも逃げることもできず,言葉にもできず,他の何かの手段で誰かに伝えることなどできない塊のような情動に圧倒され,抱えようとしても抱えきれず,たった一人でそれを味わっていた自分自身です。

自分の体験を表現することができない状態は,自分が存在していない状態と同じです。

そして,「表現が確かに受け止められるとプロセスが進む」のです。つまり,自分を取り戻すためには,表現を受け止めてもらえる他者が不可欠なのです。

「怖かった…」,「悲しかった…」,「泣きたかった…」,「逃げたかった…」,「あの時こうだった...」。

その時の体験が,少しずつ言葉や他の何らかの方法で表現することができるようになり,また表現できるからこそ伝えることができるようになり,その表現を信頼できる相手に受け止められることによって,圧倒されていた塊を少しずつ扱うことができるようになり,本来の自分を取りもどすことができるようになっていくものだと私は思っています。

「回避」の問題を抱えている方に対して,「逃げている」,「問題に向き合えない」,「成長していない」などとネガティブな印象を持っている家族や友人,上司や教員,コーチや対人援助職者も少なくありません。これは,そうした人達自身が「回避している人」を受け止められず,回避したいが故の表現なのでしょうが,この関係の中では決して回復しません。

回避したかった体験の中にこそ回復の種が存在し,それが応援されることで健康的な心が成長していくものなのではないでしょうか。